ふたつめ




 カナサヌは急いでその小さな獣を抱き上げた。微かだが、心臓の鼓動を感じる。怪我は擦り傷程度しかない。弱ってはいるが、生きている!
 カナサヌはその獣を暖めるように抱きしめ、自分の家に向かって脇目も振らず走った。その間、カナサヌの頭に浮かんでいた唯一つの言葉は「この子を助けなきゃ」だけ。無情に降り続ける雨はこの獣の体温を奪い、カナサヌの体力さえも奪っていった。カナサヌは、そんな雨から小さな獣を護るようにして突き進む。
(邪魔をするな…!)
 少年とは思えぬ鋭い形相でカナサヌは走る。もしこの様子を、母親が見たとしても、すぐにはカナサヌと気付かなかった事だろう。いつも少し困ったような顔をするカナサヌが、こんな鬼気迫る表情をする事など、一度もなかったのだ。
 通ってきた道を戻り、自分の庭に滑り込んだ。抜け出してきた窓を下から見上げ、カナサヌは少し足を止める。じっくりと城壁のように立ちはだかる大きな壁を見つめた。そして、カナサヌは両手が空くように獣を服の中に入れた。思わず身震いするほど冷たくなりつつある獣からは、呼吸による胸の動きが微かに肌へと伝わってくる。
 カナサヌは用心して壁を登り始めた。緊張で手が震える。一瞬足を滑らせる度に心臓が止まる思いがした。今度落ちたら、自分のみが怪我するだけではすまない。今、カナサヌはもう一つの小さな命を預かっているのだ。
 玄関から入る気はさらさらなかった。玄関から入れば、必ず誰かに見つかる。そうなれば、暫く質問責めに遭い、薄汚い獣を見るなり、まるでゴミのように外へ――カナサヌの解らないようなところへ捨ててしまうだろう。そうなる確信はあった。以前にカナサヌが捨て猫を拾った時、そうだったからだ。
 一度派手に滑って注意力が上がったお蔭か、はたまた兄に反発してよく木に登っていたお蔭か、なんとか足を滑らせずに二階まで辿り着く事が出来た。カナサヌはタンスから新しいタオルを取り出すと、自分より先に獣の身体を擦るように拭いてやり、優しく包んであげた。
 部屋は、カナサヌがびしょびしょに汚れた靴のまま歩き回った所為で泥だらけだったが、カナサヌは気にも留めなかった。
 カナサヌが腕がだるくなっても辛抱強く獣を擦ってやっていると、獣はうっすらと目を開けた。ぼんやりと部屋を眺め、カナサヌを見た。そして、頭がハッキリしてきたのか、急に目をパッチリ開けると、カナサヌの方を驚いたように見つめる。
 カナサヌはその様子があまりにもおかしくて、ついクスクスと笑ってしまった。しかし、それが良かったのだろう。カナサヌの笑い声を聞いて、獣の警戒の色が少し薄れたのが解った。
「良かった。気がついたんですね、ナーキャ」
 この獣は『ナーキャ』ではないとカナサヌも解っていたが、ついつい『ナーキャ』と呼んでしまった。獣はピクリと耳を震わせると、カナサヌの方へ少し鼻を上げた。瞳が何かを言いたそうにしていた。
「何? どうしたんですか?」
 カナサヌは安心させるようになるべく優しい声を出し、獣に問いかけた。獣が何かを言おうとした――ように見えた時、突然気のぬけるような情けない音が聞こえた。カナサヌはすぐに、この獣の腹の虫の音だと解った。
「ちょっと待ってて下さいね」
 そう言って立ち上がったカナサヌだが、はたと気付いて立ち止まった。今、下に下りて食べ物を探せば、やはり、誰かに見つかってしまう。食いしん坊な子供ならまだしも、間食を一切とらないカナサヌが、突然調理場を漁れば怪しまれるに決まっている。
 カナサヌは途方に暮れて部屋の中を見回した。おやつなんてものを食べないカナサヌの部屋には、食べ物の気配は全くない。しかしその時、ふと、机の上に放り投げたままの伯母さんから貰った包みに目が留まった。もしかすると、或いは――。
 カナサヌは、いつもなら綺麗にハサミを使って包装紙を開くのだが、今日は乱暴に引き裂いた。中身が食べ物である事を祈りながら――。
「……やった…!」
 カナサヌは思わず歓声を上げそうになった。中身はカナサヌの願ったとおり、食べ物だったのだ。どうやら、運が向いてきたらしい。中に入っていたのは、煎餅のように醤油で焼き上げたものに、いかにも甘そうなとろとろとした餡のようなものを浸けて出来上がった、〈ハラムカ〉というお菓子だった。
 カナサヌが包装紙を開けて小さな獣に〈ハラムカ〉を渡すと、獣はリスやハムスター等の小動物のように、前足を器用に使ってそれを食べ始めた。何の疑いも警戒心も見せずに〈ハラムカ〉を食べた事に驚きつつも、その愛らしい姿にカナサヌは思わず見とれてしまった。
 だが、そう経たないうちにカナサヌの表情は唖然としたものに変わっていった。次から次へと、〈ハラムカ〉は獣の口の中へと消えていった。一つの〈ハラムカ〉を口いっぱいに含んだ後、もう既に次の〈ハラムカ〉に手を伸ばしている獣の姿を見ると、そのお腹の中は異次元に繋がっているのではないかと疑わずにいられなかった。
 〈ハラムカ〉のファミリーパックをたった一匹で平らげると、獣はやっと手を止め、カナサヌの方を向いた。そして、にへらと笑うと口を開いた。
「……美味しかったのぉー」
 カナサヌは自分の耳を疑った。キツネにつままれるというのは、この事だろうか。
 この獣は、今確かに喋った。少し声変わりしつつあるカナサヌより幼い声で、ゆっくりと間延びした口調で――。
 そういえば、ロビンソン先生――カナサヌの家庭教師の先生から聞いた事がある。人語を話す『珍獣』の話を……。この獣が、噂に聞く『珍獣』なのだろうか。
「ナーキャは……『珍獣』…なんですか?」
 そう尋ねてから、カナサヌはハッと気付いた。この『珍獣』はナーキャではない。大きさも毛並みも色も、違うところがたくさんある。それに、第一ナーキャはただの犬で、『珍獣』ではなかった。
 「ナーキャ……」と『珍獣』が口の中で復唱するのを聞き、カナサヌはいつもの少し困ったような表情を浮かべた。
「すみません。あなたにも、名前はありますよね。ナーキャっていうのは、今日死んだ私の犬の名前で……」
 カナサヌはそう言ってから、投げやりにベットに横になった。突然ナーキャの冷たい身体の感触を思い出し、咄嗟に自分の身体を抱きしめ、身震いをする。そして、それと同時に大粒の涙が溢れた。――そう、ナーキャは死んだのだ。解っていたのだが、自覚がなかった。この『珍獣』に会う前なんて、ナーキャに置いていかれたと逆恨みしたほどだった。
 ――もう、一緒に庭で遊ぶ事も出来ない。餌の時間になっても、人懐っこく駆け寄ってくる事もない。もう二度と……。今頃になって、後悔の念がカナサヌを飲み込もうとする。カナサヌは込み上げてくる嗚咽を、何度も抑え殺した。
「ナァーキャでいい〜」
 その時だった。冷たく暗い渦の中から一筋の光と共に、冷えたカナサヌの頬に暖かいものが当たった。いつの間にか閉じていた目を開くと、目の前に気のぬけるような笑顔を作った小さな『珍獣』がいた。『珍獣』はその、にへらと笑った笑顔のままもう一度言い直した。
「ナァーキャが、いい〜」
 カナサヌはゆっくりと身体を起こすと、『珍獣』の方に向き直った。『珍獣』は屈託のない笑みのまま、カナサヌを見つめている。少し迷ったが、カナサヌは小さな声でその『珍獣』の名を呼んでみた。
「ナーキャ……」
「はぁい〜」
 身体中の筋肉が緩みそうなほどほのぼのとした声。
 何という偶然だろう。ずっとナーキャと話したいと思っていた。叶わないと解っていながら、何度話しかけた事だろう。
 何という奇遇だろう。ナーキャと別れた日、ナーキャと会うなんて。もうカナサヌの中で、この『珍獣』の名はナーキャに決まっていた。
「ナーキャ…?」
「はぁい〜?」
「ナーキャ……」
「んん〜?」
「ナーキャ」
「なぁにぃ〜?」
 名前を呼ぶたびに嬉しそうに返事をするナーキャを見て、不意にカナサヌはクスクスと笑い出した。それと同時に、涙がまた零れる。ナーキャは相変わらずにへらと笑っていた。なんとよく出来た世の中だろう。この世はまだ、カナサヌを見捨ててはいなかった。
 その時、カナサヌはふと立ち上がった。ナーキャはキョトンとカナサヌを見上げる。カナサヌはそんなナーキャに微笑んで「おいで」と言った。
「ナーキャを……あ、犬のナーキャをちゃんと送ってあげなくちゃ………」
 カナサヌはまだ、きちんとナーキャの供養をしていない。兄とケンカした後、ナーキャがどうなったのかはまだ知らない。カナサヌは自分が取り乱した時の事を思い出し、顔を赤くした。
 『珍獣』のナーキャが、もう誰かに見つかっても何とかなると思った。兄も両親も現金な人だ。ナーキャが『珍獣』と知れば、そう簡単に追い出したりはしないだろう。カナサヌは安心したが、同時に哀しい気持ちになった。自分の家族が、肩書きのみで態度を変える事を知っているからだ。
 カナサヌはナーキャを抱いて部屋を出た。服もいつの間にかもう乾いている。ナーキャは嫌がりもせず、寧ろ喜んでカナサヌの腕の中に入った。『珍獣』のナーキャは、犬のナーキャのように人懐っこかった。
(なんて、暖かいんでしょう……)
 ナーキャを家に連れて帰る時はカナサヌがナーキャの身体を温めていたが、今はその逆――ナーキャがカナサヌを元気付けるように温めてくれている。カナサヌは、ナーキャと繋がっているようで何だか嬉しかった。
 カナサヌは階段を下りた所で、偶然通りかかった母親に会った。母親はカナサヌを見ると何かを探るように眺め、一瞬驚いたようにナーキャを見てからまたカナサヌに目を戻した。
「どうしたの? その格好……」
 問題はナーキャだけではなかった。自分の事を忘れていたのだ。服は乾いたと言えど、泥だらけ。カナサヌは窓から外に出た事に触れないように、口籠りながら答えた。
「その……外に、出たんです」
「この雨の中? 傘も差さず?」
「はい……」
「風邪ひくじゃない!」
 カナサヌは母親から目を逸らして俯く。カナサヌには続く言葉が見つからなかった。
「で? その汚れた生き物は何? まさか、拾ってきたなんて、言わないわよね?」
「…………」
 母親に先手を取られ、カナサヌは何と言えばいいか迷った。ナーキャは自分が話題になっている事を知ってか知らぬか、カナサヌの腕の中で物珍しそうに部屋を見回していた。
「とにかく、飼おうなんて思ってないでしょうね? そんな、う……」
「この子は、『珍獣』なんです」
 その瞬間、母親の眉がピクリと動いた。思ったとおりだ。今度は母親に先手を取られずに済んだ。カナサヌはこれ以上深追いされないように話題を変えた。
「あの、ナーキャは……」
「あぁ……カナサヌは、大分あの犬に思い入れがあったみたいだから、カナサヌの手で送ってあげる方がいいと思ってね」
 そう言って、母親はカナサヌの部屋から一番離れた物置に向かって歩き出した。カナサヌも『珍獣』のナーキャを抱いたまま、母親の後についていった。おそらく、犬のナーキャはそのままなのだろう。カナサヌはナーキャをどこに埋めるか考えた。庭に埋めたら、庭師が怒るだろうなぁと思い、テストで解らない問題があった時よりも速く頭を回転させた。
 しかし、それらは全部無駄骨に終わった。とても不可解な事が起こったのだ。犬のナーキャが住んでいた物置に着いたが、どこをどう見渡しても、ある筈のナーキャの遺体はなかった。
(……ありえない)
 カナサヌはナーキャが横たわっていた筈の場所に膝を着き、周りを見渡した。だが、どこにもナーキャに関する情報は得られなかった。カナサヌは説明を求めるように母親を見る。しかし、母親も驚いているらしく、暫く固まっていた。
「母…さん?」
 カナサヌに呼ばれてから我に返った母親は、動揺しているのを隠すように引きつりながら笑った。
「……だ、誰かが、先に埋葬しちゃったみたいね。お兄ちゃんに聞いてみたら?」
 兄に尋ねるのは気が引けるが、犬のナーキャの行方を知りたいので、兄の自室へと向かった。しかし、兄からも庭師からも料理師からも家にいる誰からも、犬のナーキャについて知っているものはいなかった。
 ――つまり、カナサヌが兄とケンカした時から、誰もナーキャを見ていないのだ。カナサヌが走り回っている間中、静かに腕の中で待っていた『珍獣』ナーキャは、何かを言いたげに二度三度口を開いたが、その口から漏れたのは小さな息の音だけだった。

――カナサヌが取り乱した時以来、黒い犬の姿を見たものはいなかった――






 「ほぅら、ナーキャちゃん。これはどう?」
 カナサヌの母親は『珍獣』ナーキャに向かって、一つの皿を差し出した。ナーキャはその皿の上にのったものにパクリと食いつくと、もごもごと口を動かした。
「ほぅれ、はぁひぃ〜?」
「喋った! 可愛いー!」
 食べ物に食らいついたまま「これ、なぁに〜?」と――おそらく――尋ねたナーキャに、母親はまるで幼少時代に返ったかのようにはしゃいでいた。どんなものだろうと食べ物ならいいナーキャに説明が必要なのかどうか解らないが、折角なのでカナサヌは教える事にした。
「それは〈セミナンソメヌ〉というものですよ。〈セミナン〉という魚に、〈ソ〉という葉っぱで包んで蒸したり焼いたりするんです。〈メヌ〉とは、包むという意味です」
「なぁるほろ〜」
 まだ口の中で〈セミナンソメヌ〉をもぐもぐと食べながら、ナーキャは気の抜けた返事を返した。母親はそんな一言一言に喜んでいる。兄もそんなナーキャを面白そうに見ているが、何故かナーキャが兄だけは嫌うので、自分から近寄らないようにはしていた。
 『珍獣』ナーキャが来てから、明らかに家族の態度が変わった。食事の時はいつも静かで、時には自室で一人で食べる事もあったが、今はこうして、仕事でいない父親を除く家族三人がテーブルに揃い、楽しく会話している。カナサヌにはそれが嬉しくもあり、また恐ろしくもあった。ナーキャが現れるだけですぐに変わった食卓。それが、次の瞬間には簡単に崩れ去ってしまいそうに感じたのだ。
「ご馳走様」
 カナサヌは急に怖くなり、この場から逃げるように立ち上がると自分の部屋に向かった。ナーキャはカナサヌが歩き始めた瞬間、持っていた〈セミナンソメヌ〉の残りを置き、引き止めるように伸ばした母親の腕をすり抜けて、すぐさまカナサヌの後を追った。
「どぉしたのぉ〜?」
 部屋に着いて、ゆっくりとした口調で問いかけるナーキャをカナサヌはじっと見つめた。そんなカナサヌに気分を害す様子もなく、ナーキャはカナサヌの机の上に上った。そして、カナサヌをじっと見つめ返すと静かに口を開いた。
「……お腹空いたぁ」
 これには流石のカナサヌも力が抜けて、思わずこけそうになってしまった。何とか体勢を立て直してナーキャに言う。
「…今、食べたばかりじゃないですか」
「全部、食べてないもぉん〜」
「じゃあ、食べてればよかったのに……」
「カナサヌがぁ、いないもぉん〜…」
 ぷぅとふてくされるナーキャの姿は、思わず抱きしめたくなるほど愛くるしいものだった。
「……別に、私なんかいなくてもいいではないですか」
「ぃやぁっ」
 ナーキャは駄々っ子のように首を左右に振ると、ぴょんっとカナサヌに飛びついた。カナサヌは反射的にナーキャを抱いていた。
「…仕方ないですねぇ……。では、何か食べるものをとってきましょうか」
「うん〜」
 ナーキャは嬉しそうににへらと笑うと、カナサヌの腕の中で丸まった。カナサヌは、少し困ったように笑ったが、内心喜んでいた。自分が必要とされている事が、とっても嬉しかった。


もし、自分が家を出て行くと言ったら、ナーキャはついてきてくれるだろうか――





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